会社の仲間と6年程山行を続け、その後須坂山岳会に入会した。この会は同世代の会員が多く、又集会場所として一軒家を借りており、自由な時間に意見交換ができた。気の合った仲間と厳しい山行の機会も増えてきた。小生の基礎技術は本山岳会で培われた。今は消滅したが、OB会で新年会をしたり、かっての仲間の家を訪ねたり、交友は続いている。須坂山岳会の在籍は東京転勤までの8年間であった。山行の中から抜粋して初めての山行を掲載する。(一部思い出の山行と重複部分あり)
①初めての涸沢、穂高(1970,10)
上高地は比較的近く、合宿等で良く行った。当時はまだバスターミナル迄自家用車で入ることができた。夜10時頃仕事を終えてから須坂を出て、上高地に2時頃着き、そのまま涸沢に向かう。勿論眠い。平坦な道では眠りながら歩いた記憶?がある。涸沢に着くと2時間程仮眠して、奥穂を目指した。若かったのである。
②初めての正月、妙高山(1972,1)
この頃の年中行事の1つが正月の冬山合宿である。サラリーマンはこの時期しか纏まった休みが取れない。この年は妙高山に登った。頂上直下でテントを設営しているとゴ―と大きな地鳴り。この山には地獄谷があり、そこの土砂が一気に流れ下った様だ。我々は其処を渡って来たので退路を断たれてしまった。やむなく別の稜線を下ったが、吹雪と深雪により難儀した。前記の土砂崩れは下の国道迄達し死者も出たとの由。冬は何があるか分からない。
正月の妙高山山頂 帰り吹雪の中下山
③初めての北岳、合宿(1972,8)
同世代の仲間も多くなり、合宿も遠くに足を伸ばせるようになった。この年は南アルプス北岳に行った。まだこの頃は広河原まで自家用車で入れたので助かった。旧式テントを大樺沢二股迄持ち上げた。一通り雪渓の登り方などをレクチャーして八本歯コル経由で北岳ににぼった。若者が10人近く集まると山行も楽しかった。初登頂の人も多く、みんな感激していた。
大樺沢雪渓を登る 北岳山頂にて
④初めての穂高岩登り(1972,10)
当初、岩登りには興味はなかった。しかし同世代の仲間と行動を共にしているうちに感化されてきた。長野に物見岩という練習岩場があり、よく通った。そしてアプローチが比較的近い穂高四峰に突き上げる北条新村ルートに挑戦。グレードは5級の上級レベル。オーバーハングがあり、アブミを使っての空中移動もあったが何とか四峰山頂に到達、二人で固い握手を交わした。そのまま前穂、奥穂経由涸沢に降りた。充実した岩登りであった。
2mほどのオーバーハング 四峰山頂で固い握手
⑤初めての高妻山、冬合宿(1973,1)
山岳会の正月の年中行事である冬合宿、今年は高妻山であった。この辺は長野でも豪雪地帯に属し、ラッセルが大変な山である。沢沿いは雪崩の危険が大きいので、戸隠牧場から五地蔵尾根で頂上を目指す。残念ながらラッセル及ばず高妻山までは行けなかったが貴重な体験をした
五地蔵尾根を登る 五地蔵頂上にて
⑥初めての本格的沢登(1974,9)
沢登りも本格化してきた。戸隠の高妻山に突き上げる長く、奥深い奥裾花川の遡行である。遡行図を見る限り、厳しいゴルジュが発達しているようだ。早暁、友人に入口迄送っておらい、入渓した。最初は大したことは無かったが、次第に川幅が狭まり、両岸が10m程のU字型の切れ込んだ長いゴルジュ帯が出現。ここで雨でも降られればアッという間に流され、命を落とす。途中3mほどの滝があり、ハーケンが打ってある。どれも頼りないが小まめにカラビナを掛けて登る。しかし最後のハーケンに力を掛けたら抜けて1mほど落下。どこも負傷しなかったが冷や汗ものだ。途中猿の群れに威嚇もされたが、夕刻やっと高妻の稜線に出た。下で友人が心配して待っていてくれた。12時間ほどの遡行出あった。
滝の右岸を岩登り 源頭が近づいた
⑦初めての交流ハイク(1975,6)
長野市に「プモリ」という名の知れた、女性だけの山岳会がある。交流の場を広げようと彼女らを招いて交流山行を企画した。まだみんな若く、このような企画には飛びつく。当時フォークダンスが流行しており、舟木一夫「高校一年生」の「フォークダンスの手を取れば・・・・」の如く、見知らぬ山仲間と手を取り合って楽しい時間を過ごした。
交流山行の集合写真 当時はやっていたフォークダンス
⑧初めての鳥甲山(1975,9)
新潟県との県境近くに鳥甲山がある。厳しい山である事は認識していたが、挑戦した。普通は屋敷側(秋山郷から見て、山の右方面)から登るため、急坂ではあるもののあまり危険な所は無い。しかし反対側のカミソリ岩周辺は針金1本の支えで、戸隠の蟻の戸渡の様な岩場を通過する必要があり、かなり危険である。しかし近年、岩場の下に巻き道が出来て安全に通過できるようになった。
カミソリ岩を登る 結構厳しい稜線
⑨初めての北鎌尾根(1975,8)
この年の夏合宿は槍ケ岳集中であった。私は友人と北鎌尾根を選んだ。湯股から千天出合迄入れたため、Ⅰ峰から槍を目指した。1日では槍迄行けず、途中独標でビバークした。暑い日で水が不足。次の朝は草の露をすすって渇きをいやした。槍の穂先には夏道ルートとは反対側から飛び出す。帰りは千丈沢の宮田新道が通れ、一気に千天の手合迄駆け下りた。今は北鎌沢からのコースが一般的。
北鎌尾根の取り付き千天出合 穂先近くから見た槍独標
⑩初めての正月、鹿島槍ケ岳(1975,12)
正月の雪山も近隣では飽き、比較的近い鹿島槍ケ岳を狙った。爺ケ岳南尾根の深いラッセルを乗り切ると爺ケ岳三山の危険なトラバースが待っている。天気は荒れ模様。冷池小屋にベースキャンプを張り1日停滞して天気の回復を待つ。次の日アタック。頂上からは剱岳が綺麗に見えた。やはり上信越の山とは違い、苦労しただけあって素晴らしい眺望だ。この感動を次に生かせたい。
爺ケ岳南尾根の深いラッセル 冷池小屋から鹿島槍を望む
鹿島槍ケ岳山頂にて 鹿島槍ケ岳より見た剱岳
⑪初めての、春の白馬岳(1976,5)
白馬岳も春になると天気も安定してくる。仲間と栂池から入山した。当日は天気は良かったが、夜半から猛烈な季節風に見舞われた。ブロックも役に立たない。ポールが折れ、一晩中みんなでテントを手で押さえていた。次の日も風が強く、結局登頂はあきらめざるを得なかった。
風に備えブロックを作たが 白馬岳の山並み
⑫初めての岩場ルート工作(1976,10)
須坂市高山村の神社の横にちょっとした岩場がある。この頃岩登りに熱が入りだしていた。長野市に物見岩という練習用の岩場はあったが、ここは近くて楽しめた。そして単に既成ルートを避けて新規ルート開拓に意欲を燃やした。しかもフリークライミングでは物足りず、アブミを掛け、ジャンピングで根気よく岩場に穴を開けボルトを打ち込んで進む尺取り虫の様なルート工作を楽しんだ。
⑬初めての正月、槍ケ岳(1978,1)
若い力の結集は素晴らしい。今度は正月、槍ケ岳を目指そうという事になった。先輩諸氏からは横やりが入ったが皆で協力して実行に移した。横尾尾根の下見をし、ルートを確認した。当日は本隊と同数のサポート役の会員が河童橋までエスコートしてくれ、ありがたかった。横尾尾根の中程にベースキャンプを張りアタックした。しかし、その年は上高地でも雨で稜線上は青氷であった。でも何とかみんなで力を合わせて登頂することが出来た。生憎の天候で眺望は無かったが、しっかりと槍の穂先を踏んできた。
本体とサポート隊員 横尾尾根を進む
横尾尾根の岩場 槍ケ岳山頂
⑭活動年表
須坂山岳会で活動してきたが、今までの会としての活動履歴が無かった。そこで会の活動の記録を綴ろうとの意見があり、取り敢えず昭和45年から50年までの記録を纏めることにした。編集担当者を選び資料をかき集め、何とか「年報」」という形で作り上げた。表紙は悩んだがヒマラヤ山脈のスケッチにした。内容は6年間の活動内容記事、活動年表、名簿、須坂山岳会報初号、世界の高峰を載せ、市内のスポーツ店などの広告を載せ、費用を抑えた。
◎年報の発行は1976年12月であった。
須坂山岳会「年報」
秋山郷での合宿スナップ